FIREとは「無駄な苦労」をしにいくということ

考え

ちまたで流行しているFIREですが、若者の憧れのようになっています。かくいう私も残業が続くと苦痛に感じ、FIREの自由な生活に憧れることがあります。

ただFIREを「謳歌する」ブログでは、おうおうにして、その良い面ばかりが語られていることに注意す流べきでしょう。

FIREは果たして「自由」で「快適」で「この世の理想」のようなものなのでしょうか。

私は、これまでの経験から、それには疑問を抱いています。早い話が、大学時代の夏休みのようなものでしょう。やることが常にない、という状態です。それでも大学時代は登山したり、帰省したり、高校時代の友人と飲んだりなどで時間をつぶすことができました。ただ40,50の良い年をした大人にとってそのような時間の使い方は果たして本当に楽しめるのでしょうか。

登山も毎日するわけではありませんし、飲み会でも話が合わないでしょう。何より、仕事ではそれなりに自分の差配で仕事ができ、周囲への影響力もある人が、急になんの影響力もない、ただの「そこにいる人」となることに耐えられるのでしょうか。

社会ではあらゆる人がそれまでに専念してきた自分の仕事というものがあります。銀行員なら金融にやはり精通していますし、医者なら医学に、コンビニの店員はコンビニ業務に、清掃員なら掃除の仕方に精通しています。つまりは、ある意味で、皆がそれぞれの道の「プロ」です。

そしてあなたはそれまでの仕事でつちかってきた分野においてやはり何らかの「プロ」であったはずです。それがFIREすると、自分は他者に比べて、社会の仕事の上で、勝っていることはほとんどなにも無いという状況になります。コンビニの仕事であれ、配達であれ、清掃であれ、警備員であれ、あなたは全くの「素人」から始めないといけません。

40,50にもなり、今までの仕事で「プロ」であった人が、全くの使えない「素人」となり、一から仕事を始めるのは、辛い思いをすることがきっと多いはずです。(それを覚悟してやるのなら良いのですが。)しかも、その辛い思いをして努力したとしても、吸収力や適応力も落ちており、何より経験の差は埋められませんので、10代や20代からそれをやっている周囲の「プロ」のレベルには到底達しないでしょう。

社会において、自分があらゆる他者に比べ「有用で無い」という感覚はどのようなものなのでしょうか。人間、何か自分が社会に「少しは役立っている」、「少しは素人よりはうまくできることがある」という健全な自尊心は、前向きな人生を維持する上で欠かせないように思います。

無論、FIRE後にも、「役立っている」「周囲の人よりも上手くできる」ということがあるのなら、それで満足感が得られるでしょうから、それらに取り組む気概や能力のある人はそれで良いでしょう。

ただ、それが無い状態、つまり取り組むべき「次の仕事」が無い状態で、FIREすると、「無駄に辛い思い」をすることになるのではと思います。「無駄に辛い思い」をするというのは、自分がより楽に・より上手にこなせることがあるのに、それを自ら捨てて、よりしんどい思いをし・より拙い成果しか出ない人生を歩むということです。

私は、幸か不幸か、気概も能力も乏しい人間なので、現時点では今の仕事を生涯続けていく(続けさせてもらえるのなら)つもりです。結局それが一番無駄な苦労や無駄な辛い思いを避けることにつながると思います。社会からも望まれることだと思います。(社会に望まれるために生きているのではありませんが、「仕合わせ」の良い人生を送るためには社会に望まれることが必須でしょう。)

ただ、もし本業があまりにも辛く、かつ上手にこなせる「次の仕事」ができたのなら、その段階においてFIREを現実的に検討することはありなのでしょう。ただ、そのような「次の仕事」をつくるためには、本業をしている段階から、計画的に準備をしていく必要があると思います。

FIREを検討するのは、それからの話でしょう。

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